.25

玄奘三蔵による大般若波羅蜜多経は全16会600巻の経典群で、文字数にすると4820693字になる。 その為、転読が行われるが、大般若波羅蜜多経の転読では、導師は大般若波羅蜜多経の第10会・般若理趣分を真読して、30名が各々20巻ずつ分担して大般若波羅蜜多経にある般若不忘聞持陀羅尼を唱えつつ転読するのが一般的で、転読で繰る際に生じる風は梵風と呼ばれる。

阿地瞿多(中インド)が永徽3年(652)に長安に到着して唐高宗の命で慈門寺に入り翻訳した経典(653-654)である陀羅尼集経には、大般若波羅蜜多経を読誦する者を守る十六善神について述べている。

「若有念此般若波羅蜜多名者 我等眷屬悉皆擁護 若人持此般若波羅蜜多時 忽遇一切諸難事者 我等眷屬共相擁護。若復有人欲得般若波羅蜜多成就者。我等眷屬使滿其願。」

" 若し、人この般若波羅蜜多を誦し聴き念ずる者あらば、一切の難事に遇いても我等眷属は行処に随ってこれを衛護し、共に相擁護せん。若し、又、般若波羅蜜多の成就を得んと欲する者あらば、我等眷属はその願を満ぜしめん。"

十六善神とは、達哩底囉瑟吒大將・禁毘嚕大將・嚩日嚕大將・迦尾嚕大將・彌覩嚕大將・哆怒毘大將・阿儞嚕大將・娑儞嚕大將・印捺嚕大將・波夷嚕大將・摩尾嚕大將・嬌尾嚕大將・眞特嚕大將・嚩吒徒嚕大將・尾迦嚕大將・俱吠嚕大將の事で、四天王と十二神将を合わせたものとみられており、達哩底囉瑟吒大將が持国天、哆怒毘大將が増長天、波夷嚕大將が広目天、印捺嚕大將が多聞天に相当するとの事である。

 

雑記 04

古くは東洋の度量衡(長さ・体積・質量)の基準は音律に基づいて定められた事が知られており、基準音となったのは三分損益法(ピタゴラスの原理と同じ)で算出される「黄鐘」である。実際には基準音の調律に用いられる笛(律管)の長さから度量衡の基準にあてたが、笛の音は長さだけでなく太さとも関係があるので技術的な問題はあったとみられる。

基準音の「黄鐘」は日本において梵鐘の音の基準ともされており、徒然草では「凡そ、鐘の声は黄鐘調なるべし。これ、無常の調子、祇園精舎の無常院の声なり。」としているが、この場合は音階(律音)の呼称は中国と日本は異なっているので留意が必要である。(代表的な梵鐘の1つである京都・妙心寺の鐘はA音であったとの事)

尚、現代音楽(洋楽)では「A=440hz」としているが、伝統的な邦楽の場合は「A=430hz」にしているとの事である。

※音階(律音)の古名(日本名/中国名)

「神仙」/「無射」 (ドC) 「壱越」/「黄鐘」 (レD)
「平調」/「太蔟」 (ミE) 「勝絶」/「夾鐘」 (ファF)
「双調」/「仲呂」 (ソG) 「黄鐘」/「林鐘」 (ラA)
「盤渉」/「南呂」 (シB)

「断金」/「太呂」 (D#,E♭) 「下無」/「姑洗」 (F#,G♭)
「鳧鐘」/「蕤賓」 (G#,A♭) 「鸞鏡」/「夷則」 (A#,B♭)
「上無」/「応鐘」 (C#,D♭)

日本の雅楽の場合、音階(音程)は律と呼ぶ事もあれば調子と呼ぶ事もある。これは旋律や節の巡り方を調子と呼び、用いる主音名に調子(主音を中心に旋律が巡り、楽曲は主音で終止する用い方がされている)がついて呼称される為であるとみられる。

能楽世阿弥「花鏡」でも調子について述べられており、雅楽の六調子(壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調・太食調)の太食調(平調に近いE音を主音)を除いて五調子としており、さらに不足分を補う為に下無(無調)を入れるとしている。

佛教音楽である聲明の天台聲明の場合では、壱越調・平調・下無調・双調・黄鐘調・盤渉調の六調子、真言聲明では下無調を除く五調子を用いるとされてる様である。

※各界における調子の扱い

雅楽  「呂」 壱越調・双調・太食調  「律」 平調・黄鐘調・盤渉調
聲明  「呂」 双調・黄鐘調・壱越調  「律」 平調・盤渉調
世阿弥 「呂」 平調・盤渉調      「律」 双調・黄鐘調・壱越調

余談となるが、雅楽では調子には季節と結びつける考え方(時の声)があり、例えば夏に冬の調子を用いて涼を楽しんだりもした様である。(「呂」(長調)を陰、「律」(短調)を陽。 春は「双調」、夏は「黄鐘調」、秋は「平調」、冬は「盤渉調」。土用は「壱越調」)

雑記 03

記録に基づくならば安倍晴明は長徳年間(995年~999年)には主計権助に任じられていた事は意外にも見落とされがちである。(「大間成文抄」「朝野群載」)

主計寮とは律令制民部省に属して国家の税収・国費の支出等を司る役所の事で、実務では数学的な知識が求められた。律令制における数学は算道と呼ばれ、算道で用いられた数学書では中国の天文数学書「周髀算経」や官吏が行政上必要とする数学上の問題が網羅された「九章算術」等が知られている。

これら中国から伝わった数学書では「勾股定理(ピタゴラスの定理)」についても述べており、少なくとも平安期にはピタゴラスの定理が日本に伝わっていた事になる。

 

 

.23

インド北東部地域のパーラ朝以降において摩利支天の作例では、馬に乗る図像ではなく、猪に乗る図像が多く確認されてるが、漢訳経軌において摩利支天と猪が関係するとしている記述は「佛説大摩里支菩薩經」にあり、「佛説摩利支天經」「佛説摩利支天菩薩陀羅尼經」「佛説摩利支天陀羅尼咒經」「末利支提婆華鬘經」「摩利支菩薩略念誦法」「摩利支天一印法」といった経軌には猪に関する記述がみられない。闍那崛多訳「佛本行集經」や阿地瞿多訳「佛説陀羅尼集經」第10でも摩利支天に関しての記述がみられるが、猪に関しては述べられていない。

漢訳された経儀において摩利支天は天女形の女尊としているが、天台密教の学匠・阿覚大師安然(841-寛平年間(889-898))は、天慶6年(943)の「普通授菩薩戒広釈」において、大乗寺院の上座を論ずる箇所で男尊としている。原典は失われているが阿覚大師安然は「摩利支要記」「真言要記」において摩利支天に関する記述を行っていたとみられ、儀軌や口伝、図像や修法の記録、諸寺略記等を収録した承澄(1205-1282)らによる「阿娑縛抄」にて引用文がみられる。

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摩利支天について「阿娑縛抄」巻145の記述では阿覚大師安然の摩利支要記からの引用として、不空訳の摩利支天儀軌によれば摩利支天菩薩は大日如来の三昧耶で日喩三昧に入り、日天の眷属であるとしている。

念の為に述べておくが「佛本行集經」で摩梨支(陽炎)と記述される摩利支天は、「佛説摩利支天菩薩陀羅尼經」および「佛説陀羅尼集經」では「爾時世尊告諸比丘 日前有天 名摩利支 有大神通自在之法 常行日前 日不見彼 彼能見日」(爾の時 世尊は諸比丘に告ぐ 日の前に天あり 摩利支と名づく 大神通自在の法あり 常に日の前を行き 日は彼を見ざるも 彼は能く日をみる)としており、「末利支提婆華鬘經」では「有天名末利支天 常在日前行」としており、更に「佛説摩利支天陀羅尼咒經」では「有天名摩利支天 常行日月前」、「佛説摩利支天經」では「有天女名摩利支 常行日月天前」、「佛説大摩里支菩薩經」では「有一菩薩名摩利支 而彼菩薩恒行日月之前」としており、少なくとも漢訳においては日天と同一視はされていない。日天よりも前、或いは先行するものと位置づけされてる。

 インドの「リグ・ヴェーダ」では太陽神(スーリヤ surya)は数頭立ての馬を自ら御して天を駆けるとされる。日天も同様に数頭立ての馬に乗るとされる事は知られている。「ヴィシュヌ・プラーナ」ではスーリヤ神は暁を象徴する御者アルナ(aruna)を従えるが、このアルナの兄弟には聖鳥ガルダがいる。「リグ・ヴェーダ」でも暁の女神ウシャス(usas)があるが、ウシャスは馬もしくは牝牛の牽く車に乗るとされており、パーラ朝や仏典の摩利支天の様に猪に乗るとはされて無い。太陽神スーリヤ神についてだが「ヴィシュヌ・プラーナ」では、工芸神ヴィシュヴァカルマンが太陽神スーリヤの求めに応じてスーリヤ神の光の8分の1を削り落として、その光からヴィシュヌ神の円輪、シヴァ神の三叉の戟、軍神カールッティケーヤの槍、富の神クベーラの武器を作ったとしている。 

尚、インド神話において猪は多く記述されるが、文献によって猪はブラフマーの化身とされたりヴィシュヌの化身とされたりと様々である。猪に関する神話としては、魔神によって水中に沈んだ大地をヴィシュヌが猪に化身して救う神話は知られているが、「リグ・ヴェーダ」ではヴィシュヌとインドラが猪を倒したとする神話「タイッティリーヤ・サンヒター」では猪は魔神の財宝の保持者とする神話、「シャタパタ・ブラーフマナ」ではヴィシュヌの敵であった猪が大地を救う神話(プラジャーパティであったとする)、「タイッティリーヤ・アーラニヤカ」では大地は千臂の黒き猪によって持ち上げられたとの神話などがある。「ラーマーヤナ」「ヴィシュヌ・プラーナ」「リンガ・プラーナ」「ガルダ・プラーナ」では大地を持ち上げた猪はブラフマーの化身であったり、ヴィシュヌの化身であったりと統一性がなく、例えば「ヴィシュヌ・プラーナ」では猪をブラフマーの化身としていても讃歌ではヴィシュヌの属性が多くみられる。アーガマ文献やタントラ文献では猪はヴィシュヌの化身としている。

 

.22

伝教大師最澄と共に並び称されている弘法大師空海と関わりのあった般若三蔵は、迦畢試国(アフガニスタン東部地域。カピシー国の王都ベグラームはクシャン朝にはカニシュカ王の夏の都として栄える)の出身とみられている。

中国における密教の地位を確立させたのは不空金剛であるけども、この人物の出生地については諸説あるが、父親はインド北部地域出身のバラモンで、母親は康居人(ウズベキスタンサマルカンド人。ゾグド系)であったとされる。

魏書(巻102)の康国(サマルカンド)の条には「律書があってつねに祆祠(ゾロアスター寺院)に置かれている」との記述があり、この記述にある「律書」はウィーデーウダート(除魔法書)であろうとみられる。

金光明經(「金光明最勝王經」は義浄訳であり、後に新たに翻訳されたもの)を翻訳したのはインド中部地域出身の曇無讖であるけども、曇無讖は大方等大集經(大集經)の漢訳も行っている。この大方等大集經は、この曇無讖による漢訳に、隋の那連提耶舎訳(インド北部地域出身)の月蔵經と日蔵經などを合わせて1つに纏められた共訳である。

不空金剛訳の「毘沙門天王經」は、ペルシャ的要素が強いとされている「大方等大集經」の月蔵經(月蔵經には毘沙門天王品がある。)と関わりが深いとされている。又、護摩に関係する記述(雑部密教との関わりがあるとみられる)もある事で知られてる「摩登伽經」にある星宿の位置はサマルカンド地域付近のものとみられてる。

.21

戦勝を司るウルスラグナ(verethraghna)の呼称は「障害を打ち破るもの」「勝利をもたらすもの」を意味しており、中期ペルシア語ではワルフラーン(warahram)と称される。クシャン朝ではウシュラグノーに相当するとみられ、ファローを所有するとの称号(ゾロアスターではファローは賦与されるものと考えられている)を持つとされている。

このウルスラグナは仏教の帝釈天と関係があるインドラの異名ヴリトラハン(ヴリトラを倒せしもの)と呼称の点において共通性がみられているが、成立過程については諸説あって定かでは無い。ウルスラグナは、アルサケス朝(紀元前247年頃から紀元後224年頃)の時期では、しばしばギリシア神話ヘラクレスと同一視されたとみられ、ササン朝226年頃から651年頃)の頃には多く信仰を集める事になり、この時期には道路や旅程を守るものとしても信仰されたとみられている。

しばしば同一視されたヘラクレスについてだが、仏教の執金剛の原型との指摘がなされているけども、執金剛が所持するものはヴァジュラであって少なくとも棒では無い。これに関連して、ヴァジュラはゾロアスター経典のアヴェスタを論拠にしてミスラの武器とみなされていたとの指摘がなされている。

猪の姿をとってミスラの同盟者として戦場で先導するとされたウルスラグナは、ゾロアスターのワルフラーン・ヤシュトでは10種の姿をとることができるとされ、強き風、黄金の角を持つ雄牛、黄金の飾りをつけた白馬、鋭い爪と長い毛を持つ俊足の駱駝、鋭い牙を持つ猛る鉄の猪、若き少年、災いを打ち破る力を持つ羽根を持つ大きな烏、美しき野生の雄羊、鋭い角を持つ雄鹿、黄金の刃のある剣を持つ人間に化身するとされた。

このウルスラグナの10種の化身について、ヴィシュヌのアヴァターラと関係するのではないかとする説があるものの、両者に共通しているのは猪だけであって今のところ定かとはいえない。余談となるが、ゾロアスターにおいて本来はミスラは太陽神(フワル)とは異なる扱いをされていたが( 密教でも類似した例がみられ、毘盧遮那仏はただちに太陽と同一視されてるわけでなく、日天(太陽)は十二天の一つとして曼荼羅の最外院に別に配されて扱われ区別されている。)、太陽はミスラの乗り物と考えられた為に、太陽神と同一視する傾向は免れなかったとみられている。 

.20

「北方毘沙門天王與無數億百千閱叉 手執焰光明珠威耀晃晃 身被甲冑」

"北方の毘沙門天王は無数奥千百の夜叉と共にやってきたが、手には焔光明珠を携えていて威耀晃晃としており、身体は甲冑で覆っていた。" 「普曜經」出家品

「爾時毘沙門天王 主領所部諸夜叉等 一切眷屬 百千萬眾 前後導從 手執火珠 或執燈燭 或執火炬 熾盛猛炎 身著鎧甲 或執弓刀箭槊器仗及鉾戟等」

"その時、毘沙門天王と配下である諸夜叉ら一切の眷属百千萬が前後に従い導いた。手には火珠を、或いは灯燭を、或いは火炬を携えて、炎は盛んに燃えており、身体は鎧甲を着ていて、弓刀箭槊器仗および鉾戟などを携えていた。" 「佛本行集經」捨宮出家品

「北方毘沙門天王 領夜叉主從北而來 將無量百千大夜叉眾 手捧寶珠其光照曜過於世間百千燈炬 身著鎧甲手執弓刀矛戟干戈輪矟叉弩」

"北方の毘沙門天王は、主従にある無量百千萬大の夜叉らを率いて北より来たりて、手に棒や宝珠を持ち、照らす光は世の百千の燈炬を凌ぎ、身体は鎧甲を着ていて、手には弓刀矛戟干戈輪矟叉弩を携えていた。" 「方廣大莊嚴經」出家品

.19

毘沙門天との関係が指摘されている豊穣や富を司るファッロー神(或いは、ファロー pharro, pharo)について、ゾロアスター教の経典であるアヴァスタのヤスタ書第10章(ミフル・ヤシュト)ではファッロー神の本質を火としている。

尚、ゾロアスター教の経典ではファッローはクワルナフ或いはフウァルナーと表記されており、クワルナフ(Khvarenah, khwarenah)は「栄光」或いは「光輪」「輝き」若しくは「威光」を示すもので、王権の象徴を示唆する。二次的な意味で「良運」などを示す。フウァルナー(xvarnah)は「富」や「幸福」などの「吉祥」を示す。

ゾロアスターでは聖火を象徴するものとされる火が燃える香炉は、ファッロー神の図像においても描かれる場合があり、類似して両肩から火焔が出ている様に描かれる場合もある。インドの夜叉(ヤクシャ)の図像でも火焔は描かれる場合があって、リグ・ヴェーダにおいては火神(アグニ)は夜叉の支配者として扱われており、ファッローとの図像上における親和性がみられる。

これは漢訳経典の普曜經や佛本行集經や方廣大莊嚴經においても同様で、出家踰城の場面において、闇夜を払う光を放つ炎を手にした毘沙門天と配下の夜叉が描写されている。毘沙門天ゾロアスター教のミスラ神の関連性についてだが、これは識者の指摘がある様に毘沙門天との共通点は無く、インドのミトラや仏教の弥勒菩薩との関連である為、引き合いに出すのは適していない。

 

.17

「時適有五百賈人 従山一面過 車牛皆躓不行。 中有両大人。 一名提謂 二名波利 怖還與衆人 倶詣樹神請福。」 

" 時に五百の賈人あり。 山より一面を過ぎて 車牛みな躓き行かず。 中に両大人あり。 一名は提謂 二名は波利 怖れて衆人と還り ともに樹神に詣で 福を請う。"

呉の支謙訳「太子瑞應本起經」下巻においても、四天王奉鉢についての記述がある。

「即和麨蜜 倶詣樹下 稽首上仏。 仏念先古諸仏哀受人施法皆持鉢。 不宜如余道人手受食也。 時四天王 即遥知仏用鉢 如人屈伸臂頃 倶到頞那山上 如意所念 石中自然出四鉢。 香浄潔無穢。 四天王各取一鉢 還共上仏。 願哀賈人 令得大福。 方有鉄鉢。 後弟子当用食。 仏念取一鉢不快余三意。 便悉受四鉢 累置左手中。 右手按之 合成一鉢 令四際現。」

" 即ち麩蜜を和し ともに樹下に詣で稽首し仏に上る。 仏念うに先古の諸仏は哀れみて人の施を受くる法に皆鉢を持つ。 余道のごとく 人の手にて食を受くるは宜しからず。 時に四天王 即ち遥かに仏のまさに鉢を用いんとするを知り 人の臂を屈伸する頃 ともに頞那山上に到り 意に念うや 石中より自然に四鉢を出せり。 香浄潔にて穢れなし。 四天王各一鉢を取り 還りて共に仏に上る。 願わくは哀れなる賈人に 大福を得さしめよ。 まさに鉄鉢あり。 後の弟子の食に用いんものなり。 仏念うに一鉢を取らば余の三意快からず。 悉く四鉢を受け 累ねて左手の中に置けり。 右手を之に按じ 合して一鉢に成して 四際を現ぜしめたり。"

ガンダーラ美術について指摘を行った識者による論説では、四天王奉鉢について太子瑞應本起經よりも普曜經や方廣大莊嚴經などに重きを置いていたが、四天王における多聞天(毘沙門天)の位置づけについて論ずる必要性があったからだとみられる。論説は興味深い内容であった。

日本の毘沙門天信仰の地には信貴山があるが、信貴山に関する平安期の絵巻・信貴山縁起絵巻(所蔵・朝護孫子寺)は国宝に指定されている。信貴山縁起絵巻の山崎長者の巻では、信貴山に籠もり、毘沙門天像を安置した小堂を建てて修業に励んでいた命蓮が、自身に代わって鉄鉢を飛ばして托鉢させて布施を受けた話が描かれている。

.16

古代インドの民間信仰の対象であった夜叉は元来は聖樹を依り代とする精霊とされ、無尽蔵な生命力を有する豊饒・多産を司る側面と荒ぶるものとしての側面を持っており、仏教の興隆以前より厚く信仰されて、豊饒・多産や子宝を成就する祈祷の対象とされ、荒ぶる側面は共同体の安寧を成就する祈祷の対象であった。

玄奘三蔵の「大唐西域記」では毘沙門天に関する記述があり、瞿薩旦那国の王が子宝に恵まれていない事を案じて毘沙門天廟で祈祷したところ、毘沙門天像の額が割れて中から子供が出てきたので王は喜んで子供を王宮に連れ帰ったが、授かった子供が乳を飲まない為に再び毘沙門天に祈祷したところ大地が隆起して乳房の様にになり、子供はこれを飲んで成長したとしている。記述にある瞿薩旦那国(クスターナ)とは于闐国(現・新疆ホータン地域)の事で、毘沙門天信仰と関わりの深い地域である。

夜叉の首領である毘沙門天(kuvera)の眷属である八大夜叉の1つとされている宝賢夜叉(摩尼跋陀羅 Manibhadra)は、毘沙門天と異名(Yaksaraja, Yaksendra, Nidhipati, Dhanapati, Dhanadhipati, Dhanadyaksa)を共有する関係にあり、毘沙門天と同様に財神・富の主の性格を持っていたとみられている。これは叙事詩マハバラータにおける記述においてでもみられもので、宝賢夜叉(Manibhadra)について財宝の主・隊商を守護する存在として扱われており、夜叉の首領である毘沙門天(kuvera)と職能を共有する事が伺い知れる記述であると指摘されている。加えて、宝賢夜叉は同じく八大夜叉の満賢夜叉(Purnabhadra)と対で扱われる事もあり、満賢夜叉の信仰地域にはガンダーラ地方が含まれるとみられている。この満賢夜叉はハーリティー女神(Hariti 仏教においては鬼子母神に相当)を配偶としてクシャン朝のガンダーラ地方では豊穣多産を司るものとされていた。

.15-3

ガンダーラ美術における多聞天毘沙門天)のデザインはクシャン朝のファッロー神との関係が指摘される。レリーフでは当時の統治者だったイラン系クシャン朝の貴族の姿であらわされる。識者の指摘ではレリーフのクシャン朝の貴族の冠はギリシャ神話からの影響としている。

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※美術資料・仏伝浮彫「四天王奉鉢」(3-4世紀)(所蔵・平山郁夫シルクロードコレクション : ガンダーラ出土・形状 灰色片岩45×58cm)

ガンダーラ出土の「四天王奉鉢」のレリーフでは、仏陀の周りにターバンを巻きインド系の衣服を纏って鉢を持つ姿の四天王が3尊、鳥翼の付いた冠を被ったイラン系クシャン朝の着衣を身に着けた姿の四天王が一尊だけ描かれる。指摘では「宝塔(舎利塔)」を持った多聞天毘沙門天)の像容はガンダーラ美術では作られていない蓋然性が強いとの事で、単独の毘沙門天像もガンダーラ美術においては現段階で確認されていないとの事である。

日本国内において「宝塔(舎利塔)」を持たない毘沙門天像(多聞天)は、鎌倉期の作とみられてる上杉謙信が祀った泥足毘沙門天像(所蔵・八海山 法音寺 ※上杉家菩提寺山形県米沢市)や平安後期の作とみられる国宝・毘沙門天三尊立像の毘沙門天立像(所蔵・京都鞍馬寺)が有名である。

.15-2

中央アジアから北西インドにかけて支配したイラン系クシャン族が建てた王朝であるクシャン朝(クシャナ朝)は中国文献には貴霜朝と記されている。

イラン系のクシャン族(Kushan)はバクトリアで半農半牧の民であったとされており、1世紀前半には大月氏支配下バクトリアで、クシャン族長(ヤブグ)であるクシャン侯クジューラ・カドフィセース(丘就郤)が独立して支配権を握り、パルティアに侵入してヒンドゥークシ山脈を越えてガンダーラに進出する。クジューラ・カドフィセースの子であるウィマ・カドフィセース(閻膏珍)はインド内部まで領土を拡大、北インドのマトゥラまで勢力を拡大して王朝の基礎を築く事となる(第1クシャン朝)。

2世紀のカニシカ王の時期(第2クシャン朝)には、アフガニスタン・北西インドの大部分を領有する事になる。130年頃のカニシカ1世は中央アジアから北インドにかけて国家を建設、フビシカの治世までの約70年間の期間は王朝の最盛期を迎える。王朝の版図は東西トルキスタンからガンジス川中流域に及ぶ時期もあったが、3世紀にはイランのササン朝ペルシア(シャプール1世)により征服されて服属し、4世紀後半には一時復興するも、5世紀後半から6世紀には新興のエフタル族に滅ぼされる事となる。

王朝の中心地はバクトリアであったが、カニシカ王の時期にガンダーラのプルシャプラ(現・ペシャワル)に首都おかれた。領土はギリシャ・イラン・インドといった諸民族が居住、当時の四大文明圏(ローマ帝国・パルティア・中国・インド)を結ぶ東西貿易の要衝の地にあたる事からコスモポリタン的な性格を持ち、商業国家として隆盛を極め、統治下で東西文明が融合して特色ある文化を生んで、東西の経済・文化交流に大きな役割を果たす事となった。だが、カニシカ1世の時期から勢力の中心が北西インドに移っていく事となり、インド文化に同化するようになっていく。クシャン朝はゾロアスター教や仏教が並んで行なわれて、ヘレニズム文化の影響の濃いガンダーラ美術を残した事で知られており、仏教が中央アジアと中国に伝わった時期とも重なる。

 

.15-1

青龍・白虎・朱雀・玄武の四神は多く知られているが、仏教美術における獅子・象・馬・孔雀・金翅鳥の鳥獣については、あまり知られていない。金剛界八十一尊曼荼羅では金剛界五仏が五鳥獣座(獅子・象・馬・孔雀・金翅鳥)に座して描かれる形式のものがある。中央尊には獅子の座、東尊には象の座、南尊には馬の座、西尊には孔雀の座、北尊には金翅鳥の座が配されており、この五鳥獣座は金剛智訳の「金剛頂瑜伽中略出念誦経」の説に由来するものとみられている(不空訳の「金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経」の場合では蓮華座)。獅子の座を中央に、北西に鳥の座、東南に獣の座を配する五鳥獣座(禽獣座)は金剛曼荼羅の諸尊を描いた五部心観にもみられるものである。

仏教美術におけるデザインの伝播について・資料動画「知の回廊・ギリシアから日本に来た神々」中央大学 2010(協力:平山郁夫シルクロード美術館) 

 補足として、古代メソポタミアでは太陽の「光」を示す模様はマルタ十字に似たカッシード十字が用いられており、日本では「菊」と解釈される多弁の花模様は古代メソポタミアでは「薔薇」を示すデザインとして用いられており、出土品にみられる。多弁の花模様は地域によって「蓮」と解釈され、仏像彫刻等で多く用いられる花弁状の台座もその1つとみられる。